三沢市先人記念館

三沢市先人記念館

特別企画展

日本の牛 廣澤の牛

日本における牛の歴史は古く、弥生時代にかけて大陸から渡ってきたとされています。古い時代は農耕、運搬を中心に利用されていました。時代は明治となり、廣澤牧場は日本初の民間の近代洋式牧場とされています。廣澤安任も日本人の牛肉と乳製品の摂取を推進し、洋種の輸入や品種改良を行いました。本展では、日本における牛の歴史をたどりつつ、廣澤牧場がどのように牛の飼育を行ったかを解説します。牛がどのような役割を持ち、肉食がどのように受け入れられたかに興味を持っていただければ幸いです。

開催概要

■展示内容
●日本の牛
日本における牛の歴史を紹介します。牛の種類や、役割についても解説します。

●廣澤牧場の牛
廣澤牧場の開牧から、品種改良や頭数の変遷などを中心に紹介します。

【期間】令和6年11月13日(水)~ 令和7年4月13日(日)
※ただし毎週月曜日は休館(月曜祝日の場合はその翌日) ※年末年始(12/29~1/3)は休館
【開館時間】 4月~10月まで9:00~17:00(入場は30分前まで)
11月~3月まで9:00~16:00(入場は30分前まで)
【休館日】 毎週月曜日(月曜祝日の場合はその翌日)
【料金】 高校生以上/110円、小・中学生/60円、幼児以下/無料 ※毎週土曜日は小・中学生無料
【場所】 先人記念館 企画展示室
【主催】 一般社団法人三沢市観光協会
【お問合せ】 三沢市先人記念館
TEL:0176-59-3009 / FAX:0176-59-3045
Eメール:senjin@misawasi.com

先人記念館とは

先人記念館について

三沢市先人記念館は古くから南部藩最大の馬の放牧場「木崎の牧」としてしられた地であり、1872年(明治5年)に日本初民間洋式牧場を開設した元会津藩士・旧斗南藩少参事であった廣澤安任をはじめ、地域の発展に尽くした人々を顕彰することを目的として建設された館です。

廣澤安任とはこんな人物

幕末から明治にかけて、時代の波を駆け抜けた一人の武士がいました。その名は「廣澤安任」。当館は幕末の会津・斗南藩士である「廣澤安任」にスポットを当てています。廣澤安任とはどのような人物だったのでしょう。

廣澤安任は会津藩の藩校、日新館の出身であり、さらに江戸の昌平黌に学ぶなど優秀な人材であったと言われています。

尊皇攘夷に揺れる幕末の時代、安任は藩主・松平容保が京都守護職に任命されると上京し公用人として他藩の藩士や朝廷の公家と交流しました。
明治維新後、安任は三沢市谷地頭の地に、英国人ルセーとマキノン、八戸藩大参事太田広城と共に『開牧社』を立ち上げます。それは広大な日本初の民間洋式牧場でした。

野にあって国家に尽くす

安任は信頼もあり、時の人物、大久保利通や松方正義といった著名人から国の役人に就くことを勧められたもありました。

しかし、あくまでも安任は「野にあって国家に尽くす」と在野の身を貫き、牧畜に生涯を捧げたのです。

それは、廃藩置県で失業に陥った武士の雇用救済のためでもあったとも言われています。
そして牧畜業に留まらず、安任は数々の画期的な試みを行います。

・洋種の馬との掛け合わせにより優秀な馬を生産
・野草を牧草に品種改良
・下北半島運河開発(計画のみ)
・東京での乳製品の製造・販売  など……

常設展示室では、その様子をいつでも感じ取ることができます。 時は流れ、私たちの生活もいつか、伝えられるときがくるでしょう。時代を駆け抜けた「廣澤安任」の生き様を是非ご覧下さい。

ご利用案内

ご利用案内

三沢市先人記念館
【開館時間】
4月~10月まで
11月~3月まで9:00~17:00
(入場は30分前まで)
9:00~16:00
(入場は30分前まで)
【入場料】 一般/110円
小・中学生/60円
※毎週土曜日は小・中学生無料
【休館日】
毎週月曜日(月曜日が祝日の際は祝日明けの日)
年末年始(12月29日~1月3日まで)
※企画展示替えのため臨時休館あり(2024年は4/16、7/9、11/12の3日間)
【住所】
〒033-0164 青森県三沢市谷地頭4丁目298-652
【TEL】
0176-59-3009
【FAX】
0176-59-3045

資料室

廣澤安任は明治5年(1872)に開牧社を開設してから5年間の牧場運営の記録を『開牧五年記事』としてまとめ、明治12年(1879)に出版しました。
「開牧五年紀事より」は普段『広報みさわ』に連載していますが1年間分をこの資料室ページに掲載し、安任がどのような形で牧場経営を行っていったのか、その一端をご紹介します。

「開牧五年紀事」より

■目次

【ルセーとマキノンのこと(3)】

 前項までルセーとマキノンの関係性について述べてきたが、それに対し安任はどう考えていたのだろうか。『開牧五年紀事』には以下のようにある。

ルセー余に屡自分を掌り人にすべしと言いしが、余は敢て判せず。但しマキノンは一にルセーの弁を通するを待つ故にその情の余に達ざるありしならん。

 意訳すると「ルセーは度々自らの主導権を主張していたが、私はそれを敢えて判断しなかった。しかし、マキノンとは通訳であるルセーを通して会話していたため、考えが行き届かなかっことはあっただろう」となるであろうか。その理由として安任は以下のように続けている。

時に余は思う。二人と共に来るもの固(もと)より現業上の力に頼らんと欲するなり。而るにこれを束縛しその技扌両(ぎりょう)(倆?)を出さしめざる如きは意志に非なりと。故に事を謀るの間余は我旧習慣却て優れりとするものも未だ彼の技扌両の底を見ざれば、暫くその意に任せしことあり。

「初めからルセーとマキノンと共に開牧し、二人の牧場での働きを頼りにしたい。それなのにこれを束縛してその技量を出し切れないのは意に反することだ。それ故に暫くの間は我々の古い習慣が優れているものも彼らの技量の底を見ないうちは任せることにした。」 長い引用となったが、牧畜業のノウハウもない安任がルセーとマキノン両人の助けをいかに重要視していたことがわかる内容である。それだけに二人の不仲は安任を悩ませたことだろう。

【ルセーとマキノンのこと(2)】

ルセーとマキノン、それぞれの経歴を見てみよう。

……ルセーは書生より起て学問も出来、先に越前藩に雇われし時は金二百円の月給なり。英語に和訳を加て教授するは当時其人少しと云えり。

 ルセーは元々越前藩(現在の福井県嶺北中心部)で英語を教えていた。越前藩時代はウィリアム・E・グリフィスとともに教鞭を執っていたようである。

……マキノンは真箇の農夫かつその国もスコットランドに生れ、容貌言語共に鄙なり。(中略)牧場の如きは三ヶ所を経験し最後にオーストラリアにては十二年間の功を積みしか……

マキノンは長らく農夫の経験を積み、日本に来る前はオーストラリアで農夫をしていたとある。「言語ともに鄙なり」とあるがこれについてルセーは「マキノンの語は倒置して余も解し得ぬ事ありと語りし故を聞けり」と言っていたようで、同じ英語でも齟齬が生じていたようである。さらに

……此に来れるはルセーの誘いに出つ故に、ルセーは主談人にしてマキノンは随従人なり。相共に牧事を勉するに至てはルセーは逐々その下に出てざるを得ず……

とあり、ルセーはマキノンとの立場の違いがあるにも関わらず上辺に出ることが出来ない点を不満に感じていたようである。その後、ルセーとマキノンの仲が修復されること無く開牧3年目にしてルセーは自ら牧場を去ってしまうのである。

【ルセーとマキノンのこと(1)】

 ルセーとマキノンは共に安任らと「條約」を交わし牧場に雇われた身であったが、お互いの仲は良くなかったようである。

十一月四日英人と共に家を出て、青森に赴く。此より先ルセーマキノンと意屡(しばしば)相合わず……
……互いに抵抗力を出し争い日に止まず。或いは対椅三日語を接せず、ルセー出て牧場に在て、後にマキノン来るを見れば黙して避去り(原文ママ)……

このように記されており、両者の確執は安任から見ても目に余るものであった。ルセーとマキノンの溝は埋まること無く、当初五カ年の契約であったところをルセーは3年目の明治八年(1875)に解約し牧場を去っている。

なぜこれほどまでの確執があったのか、ルセーとマキノンの経歴や立場を含めて『開牧五年紀事』にその理由が記されている。
……(2)へ続く

【冬の間】

 開牧社がスタートして初めての冬、マキノンは牧場で飼育している牛を次のように処置したという。

冬飼にマキノン牛舎毎区の前面に於て、別に柱を立て其の両間に牛頸(うしくび)を挟み、一切顧聘(こへい)するを得さらしむ。

冬の間は牛舎の牛それぞれの区画で牛の首を柱で挟み、動かないようにしていたという。
マキノンの処置に対して安任らはこれを良しとしなかったようであるが、マキノンは多数飼う場合の方法として断じて譲らなかったようである。しかし、マキノンもこれが間違いであったとして、この方法をとったのはこの冬のみであった。

このほか、牧場では次の農耕に備えて農機具を増産していた。

匠手二人鍛冶三人農具を造る。造る所は馬車二、輌手車二、輌鉄装プラオ(プラウ)一具、輾器一具、木造ハロオ(ハロー)、他附属数種……(後略)

この頃にはすでに、谷地頭に作り手となる鍛冶職人がいたと思われる。残念ながら一番初めに八戸で作られたプラウを除いて、牧場で作られた農機具は現存していないが、恐らく同様の形であったと思われる。

【牛への烙印と左耳切り牛】

 牧場で飼育していた牛は去勢され、4歳になる以前に烙印が施されていた。烙印についてマキノンは以下のように述べている。

烙印も四歳以前に於てすべし。十分に成長せしものは暴怒、人を傷ふの懼(おそれ)あり。睾丸を截去(きりさ)るも亦然り。大抵二歳にして睾丸を截(き)り、使用七、八歳に至り其肥大を極め而(しか)る後に食用にするなり。

烙印は家畜の個体識別などに用いられるが、このほか廣澤牧場では左耳の一片を切り落とすことも目印として施されていた。廣澤安任の孫に当たる廣澤春彦が著した『廣澤牧場要覧』には

(前略)牝牛は屢々(しばしば)乳用牛として東京に出し、乳量の多さは八升余に及び且つ泌乳期割合に持続するとの評判を得、当時廣澤牧場の左耳切り牛と称し市内(当時東京市)搾乳者間に於て大(おおい)に賞用せられたり。

と「左耳切り牛」と呼ばれた廣澤牧場産の牛についての評判が記されている。現在残る廣澤牧場の家畜の写真を見ると、体に白黒の斑模様のついた所謂ホルスタインではなく、黒い体の短角牛が多く写っている。一時期ホルスタインなどの他種も導入したようではある。

【ルセー、マキノン谷地頭に移り住む】

明治5年(1872)8月11日、アルフレッド・ルセーとアンドリュー・マキノンは谷地頭に移り山中の民家に間借りした(安任は先んじて谷地頭の民家に間借りしている)。その際、八戸で作成した「牛車一両、鉄製プラオ(プラウ)一具、木製ハロオ(ハロー)一具、附属の細具数種」を持ち込んだ。以後、牧場内の整備や牛馬などの世話に携わることになる。まもなく、2人も谷地頭に移り住んだが、10月20日に安任の住居が完成したことを記した箇所に以下のようにある。

英人の宅を先にし、牛舎等之に次ぎ、最後に余が宅に及べり…(中略)…英人は其(その)宅已(すで)に成れども、其注文頗(すこぶ)る煩(わずら)わしく、11月に至って始めて移居れり

ルセー、マキノンの住居はすでに建てられていたが、注文が多く11月になってやっと入居したという。しかし、安任の注によると彼らは間借りしていた間は住居に不満を言うことはなかったという。
現在、彼らの住居の跡は何も残っていないが斗南藩記念観光村内にある開墾村に、イメージ再現された彼らの住居を見ることができる。

【経営の着手】

明治5年(1872)5月27日を開牧記念日として牧場経営を始めた安任だが、その初めから谷地頭の開拓や牛馬の世話をしていたわけではなかった。 『開牧五年紀事 上』の中には

英人と共に八戸に仮寓し、余は青森に出張して企業着手の事を弁し、又帰て牛馬豚等の事を処分し、六月二十三日谷地頭に到り牧場の経営を任ず。英人は八戸に留て耕具牛車等の製造を掌(つかさど)る……

とあり、安任は青森へ行き県に対し牧場経営の開始を伝えた後、谷地頭に帰り家畜についての庶務を行い、英人(ルセー、マキノン)は八戸に留まり、農耕具や牛馬に引かせる荷車などを作っていた事がわかる。この時に作成した農耕具として先人記念館にプラウが収蔵されているが、これはマキノンの設計で、当時八戸にいた刀匠・柏木宗重の手により製作されたものである。
安任は道中七戸にも立ち寄っており、宗村光徳と相談して洋種馬を七戸産の馬と交配させることを約束したが

英人と共に八戸に仮寓し、余は青森に出張して企業着手の事を弁し、又帰て牛馬豚等の事を処分し、六月二十三日谷地頭に到り牧場の経営を任ず。英人は八戸に留て耕具牛車等の製造を掌(つかさど)る……

とあるように、七戸の人々は七戸産の馬が洋種のものよりも優れているとして交配に難色を示したという。

【開牧と視察】

現在から約150年前の明治5年(1872)5月27日、廣澤安任はこの日を開牧記念日として牧場経営をスタートさせた。安任は東京でルセー、マキノンを牧場に雇い入れた後、5月27日に、ルセー、マキノンらも6月3日までに八戸の鮫港に降り立った。その後、牧場の場所を視察する様子が『開牧五年紀事 上』に記されている。

(前略)時に我らを直轄するは青森県の支庁七戸にて、其長官は宗村光徳氏なり。因って請うて共に出て荒野を験視し牧場をとせんとす。(中略)浜三沢岡三沢七百村等より三本木駅に出て、また小河原村より根井山中谷地頭村等指目(しもく)する所の各処を巡り・・・(後略)

とあり、七戸支庁長官宗村光徳とともに谷地頭に至るまでの各地を視察したことがわかる。 しかし、本文の掲載は省略するが八戸や三本木駅から離れていることや、視察中に村人に牧場経営をこの周辺で行いたいという考えを拒む意見もあったようで土地の選定は思うように進まなかったが、安任は視察を行った結果から、南部藩の藩牧木崎野があったこと、沼があり水を確保できること、高い丘と林が豊富なことから谷地頭に牧場を開くことを決めたのである。

【堆肥(たいひ)作り】

安任が畑の耕耘(こううん)をしている間、マキノンは堆肥の作成に取り掛かっていた。安任はその製法を次のように紹介している。

この間マキノンは堆糞を作れり。その法牛馬に基き草根の土を帯びて腐敗せしものその他廃棄物と同じく焼きたる灰又人糞或いは糞汁に染たる土などを取り交ぜ層々混和しその上に土を覆う。

(開牧五年紀事 文中より引用)

安任は堆肥の重要性を認識しており、この時マキノンから教わっただけではなく、のちにその堆肥の製法について記された『耕作必要』を手に入れており、より良い堆肥の製法を模索していたのではないだろうか。

高さ四尺許(ばかり)、幅五、六間以て明年の用とす。

(開牧五年紀事 文中より引用)

積み重ねた堆肥の素は次の年に用いるために置かれたようである。 しかし、安任はこの堆肥を作る費用も懸念していた。堆肥を作ってもそれを用いた畑で良い収穫ができなければ実入りがないためである。この時点では安任たちは畑の実入りを想像することはできなかっただろう。

日本の牛廣澤の牛

 日本における牛の歴史は古く、弥生時代にかけて大陸から渡ってきたとされています。古い時代は農耕、運搬を中心に利用されていました。時代は明治となり、廣澤牧場は日本初の民間の近代洋式牧場とされています。廣澤安任も日本人の牛肉と乳製品の摂取を推進し、洋種の輸入や品種改良を行いました。
 本展では、日本における牛の歴史をたどりつつ、廣澤牧場がどのように牛の飼育を行ったかを解説します。牛がどのような役割を持ち、肉食がどのように受け入れられたかに興味を持っていただければ幸いです。


開催概要

■展示内容
●日本の牛
日本における牛の歴史を紹介します。牛の種類や、役割についても解説します。

●廣澤牧場の牛
藩士とその廣澤牧場の開牧から、品種改良や頭数の変遷などを中心に紹介します。


【期間】 令和6年11月13日(水)~ 令和7年4月13日(日)
※ただし毎週月曜日は休館(月曜祝日の場合はその翌日)
※年末年始(12/29~1/3)は休館
【開館時間】 4月~10月まで9:00~17:00(入場は30分前まで)
11月~3月まで9:00~16:00(入場は30分前まで)
【休館日】 毎週月曜日(月曜祝日の場合はその翌日)
【料金】 高校生以上/110円、小・中学生/60円、幼児以下/無料
※毎週土曜日は小・中学生無料
【場所】 先人記念館 企画展示室
【主催】 一般社団法人三沢市観光協会
【お問合せ】 三沢市先人記念館
TEL:0176-59-3009 / FAX:0176-59-3045
Eメール senjin@misawasi.com

先人記念館について

廣澤安任

三沢市先人記念館は古くから南部藩最大の馬の放牧場「木崎の牧」としてしられた地であり、1872年(明治5年)に日本初民間洋式牧場を開設した元会津藩士・旧斗南藩少参事であった廣澤安任をはじめ、地域の発展に尽くした人々を顕彰することを目的として建設された館です。


廣澤安任とはこんな人物

幕末から明治にかけて、時代の波を駆け抜けた一人の武士がいました。その名は「廣澤安任」。当館は幕末の会津・斗南藩士である「廣澤安任」にスポットを当てています。廣澤安任とはどのような人物だったのでしょう。

廣澤安任は会津藩の藩校、日新館の出身であり、さらに江戸の昌平黌に学ぶなど優秀な人材であったと言われています。

尊皇攘夷に揺れる幕末の時代、安任は藩主・松平容保が京都守護職に任命されると上京し公用人として他藩の藩士や朝廷の公家と交流しました。
明治維新後、安任は三沢市谷地頭の地に、英国人ルセーとマキノン、八戸藩大参事太田広城と共に『開牧社』を立ち上げます。それは広大な日本初の民間洋式牧場でした。

野にあって国家に尽くす

安任は信頼もあり、時の人物、大久保利通や松方正義といった著名人から国の役人に就くことを勧められたもありました。

しかし、あくまでも安任は「野にあって国家に尽くす」と在野の身を貫き、牧畜に生涯を捧げたのです。

それは、廃藩置県で失業に陥った武士の雇用救済のためでもあったとも言われています。
そして牧畜業に留まらず、安任は数々の画期的な試みを行います。

・洋種の馬との掛け合わせにより優秀な馬を生産
・野草を牧草に品種改良
・下北半島運河開発(計画のみ)
・東京での乳製品の製造・販売  など……

常設展示室では、その様子をいつでも感じ取ることができます。 時は流れ、私たちの生活もいつか、伝えられるときがくるでしょう。時代を駆け抜けた「廣澤安任」の生き様を是非ご覧下さい。

廣澤安任と展示

ご利用案内

三沢市先人記念館

【開館時間】 4月~10月まで
11月~3月まで
9:00~17:00(入場は30分前まで)
9:00~16:00(入場は30分前まで)
館内イメージ
【入場料】 一般/110円
小・中学生/60円 ※毎週土曜日は小・中学生無料
【休館日】 毎週月曜日(月曜日が祝日の際は祝日明けの日)
年末年始(12月29日~1月3日まで)
※企画展示替えのため臨時休館あり
(2024年は4/16、7/9、11/12の3日間)
【住所】 〒033-0164 青森県三沢市谷地頭4丁目298-652
【TEL】 0176-59-3009
【FAX】 0176-59-3045

廣澤安任は明治5年(1872)に開牧社を開設してから5年間の牧場運営の記録を『開牧五年記事』としてまとめ、明治12年(1879)に出版しました。
「開牧五年紀事より」は普段『広報みさわ』に連載していますが1年間分をこの資料室ページに掲載し、安任がどのような形で牧場経営を行っていったのか、その一端をご紹介します。

「開牧五年紀事」より

■目次

【ルセーとマキノンのこと(3)】

 前項までルセーとマキノンの関係性について述べてきたが、それに対し安任はどう考えていたのだろうか。『開牧五年紀事』には以下のようにある。

ルセー余に屡自分を掌り人にすべしと言いしが、余は敢て判せず。但しマキノンは一にルセーの弁を通するを待つ故にその情の余に達ざるありしならん。

 意訳すると「ルセーは度々自らの主導権を主張していたが、私はそれを敢えて判断しなかった。しかし、マキノンとは通訳であるルセーを通して会話していたため、考えが行き届かなかっことはあっただろう」となるであろうか。その理由として安任は以下のように続けている。

時に余は思う。二人と共に来るもの固(もと)より現業上の力に頼らんと欲するなり。而るにこれを束縛しその技扌両(ぎりょう)(倆?)を出さしめざる如きは意志に非なりと。故に事を謀るの間余は我旧習慣却て優れりとするものも未だ彼の技扌両の底を見ざれば、暫くその意に任せしことあり。

「初めからルセーとマキノンと共に開牧し、二人の牧場での働きを頼りにしたい。それなのにこれを束縛してその技量を出し切れないのは意に反することだ。それ故に暫くの間は我々の古い習慣が優れているものも彼らの技量の底を見ないうちは任せることにした。」 長い引用となったが、牧畜業のノウハウもない安任がルセーとマキノン両人の助けをいかに重要視していたことがわかる内容である。それだけに二人の不仲は安任を悩ませたことだろう。

【ルセーとマキノンのこと(2)】

ルセーとマキノン、それぞれの経歴を見てみよう。

……ルセーは書生より起て学問も出来、先に越前藩に雇われし時は金二百円の月給なり。英語に和訳を加て教授するは当時其人少しと云えり。

 ルセーは元々越前藩(現在の福井県嶺北中心部)で英語を教えていた。越前藩時代はウィリアム・E・グリフィスとともに教鞭を執っていたようである。

……マキノンは真箇の農夫かつその国もスコットランドに生れ、容貌言語共に鄙なり。(中略)牧場の如きは三ヶ所を経験し最後にオーストラリアにては十二年間の功を積みしか……

マキノンは長らく農夫の経験を積み、日本に来る前はオーストラリアで農夫をしていたとある。「言語ともに鄙なり」とあるがこれについてルセーは「マキノンの語は倒置して余も解し得ぬ事ありと語りし故を聞けり」と言っていたようで、同じ英語でも齟齬が生じていたようである。さらに

……此に来れるはルセーの誘いに出つ故に、ルセーは主談人にしてマキノンは随従人なり。相共に牧事を勉するに至てはルセーは逐々その下に出てざるを得ず……

とあり、ルセーはマキノンとの立場の違いがあるにも関わらず上辺に出ることが出来ない点を不満に感じていたようである。その後、ルセーとマキノンの仲が修復されること無く開牧3年目にしてルセーは自ら牧場を去ってしまうのである。

【ルセーとマキノンのこと(1)】

 ルセーとマキノンは共に安任らと「條約」を交わし牧場に雇われた身であったが、お互いの仲は良くなかったようである。

十一月四日英人と共に家を出て、青森に赴く。此より先ルセーマキノンと意屡(しばしば)相合わず……
……互いに抵抗力を出し争い日に止まず。或いは対椅三日語を接せず、ルセー出て牧場に在て、後にマキノン来るを見れば黙して避去り(原文ママ)……

このように記されており、両者の確執は安任から見ても目に余るものであった。ルセーとマキノンの溝は埋まること無く、当初五カ年の契約であったところをルセーは3年目の明治八年(1875)に解約し牧場を去っている。

なぜこれほどまでの確執があったのか、ルセーとマキノンの経歴や立場を含めて『開牧五年紀事』にその理由が記されている。
……(2)へ続く

【冬の間】

 開牧社がスタートして初めての冬、マキノンは牧場で飼育している牛を次のように処置したという。

冬飼にマキノン牛舎毎区の前面に於て、別に柱を立て其の両間に牛頸(うしくび)を挟み、一切顧聘(こへい)するを得さらしむ。

冬の間は牛舎の牛それぞれの区画で牛の首を柱で挟み、動かないようにしていたという。
マキノンの処置に対して安任らはこれを良しとしなかったようであるが、マキノンは多数飼う場合の方法として断じて譲らなかったようである。しかし、マキノンもこれが間違いであったとして、この方法をとったのはこの冬のみであった。

このほか、牧場では次の農耕に備えて農機具を増産していた。

匠手二人鍛冶三人農具を造る。造る所は馬車二、輌手車二、輌鉄装プラオ(プラウ)一具、輾器一具、木造ハロオ(ハロー)、他附属数種……(後略)

この頃にはすでに、谷地頭に作り手となる鍛冶職人がいたと思われる。残念ながら一番初めに八戸で作られたプラウを除いて、牧場で作られた農機具は現存していないが、恐らく同様の形であったと思われる。

【牛への烙印と左耳切り牛】

 牧場で飼育していた牛は去勢され、4歳になる以前に烙印が施されていた。烙印についてマキノンは以下のように述べている。

烙印も四歳以前に於てすべし。十分に成長せしものは暴怒、人を傷ふの懼(おそれ)あり。睾丸を截去(きりさ)るも亦然り。大抵二歳にして睾丸を截(き)り、使用七、八歳に至り其肥大を極め而(しか)る後に食用にするなり。

烙印は家畜の個体識別などに用いられるが、このほか廣澤牧場では左耳の一片を切り落とすことも目印として施されていた。廣澤安任の孫に当たる廣澤春彦が著した『廣澤牧場要覧』には

(前略)牝牛は屢々(しばしば)乳用牛として東京に出し、乳量の多さは八升余に及び且つ泌乳期割合に持続するとの評判を得、当時廣澤牧場の左耳切り牛と称し市内(当時東京市)搾乳者間に於て大(おおい)に賞用せられたり。

と「左耳切り牛」と呼ばれた廣澤牧場産の牛についての評判が記されている。現在残る廣澤牧場の家畜の写真を見ると、体に白黒の斑模様のついた所謂ホルスタインではなく、黒い体の短角牛が多く写っている。一時期ホルスタインなどの他種も導入したようではある。

【ルセー、マキノン谷地頭に移り住む】

明治5年(1872)8月11日、アルフレッド・ルセーとアンドリュー・マキノンは谷地頭に移り山中の民家に間借りした(安任は先んじて谷地頭の民家に間借りしている)。その際、八戸で作成した「牛車一両、鉄製プラオ(プラウ)一具、木製ハロオ(ハロー)一具、附属の細具数種」を持ち込んだ。以後、牧場内の整備や牛馬などの世話に携わることになる。まもなく、2人も谷地頭に移り住んだが、10月20日に安任の住居が完成したことを記した箇所に以下のようにある。

英人の宅を先にし、牛舎等之に次ぎ、最後に余が宅に及べり…(中略)…英人は其(その)宅已(すで)に成れども、其注文頗(すこぶ)る煩(わずら)わしく、11月に至って始めて移居れり

ルセー、マキノンの住居はすでに建てられていたが、注文が多く11月になってやっと入居したという。しかし、安任の注によると彼らは間借りしていた間は住居に不満を言うことはなかったという。
現在、彼らの住居の跡は何も残っていないが斗南藩記念観光村内にある開墾村に、イメージ再現された彼らの住居を見ることができる。

【経営の着手】

明治5年(1872)5月27日を開牧記念日として牧場経営を始めた安任だが、その初めから谷地頭の開拓や牛馬の世話をしていたわけではなかった。 『開牧五年紀事 上』の中には

英人と共に八戸に仮寓し、余は青森に出張して企業着手の事を弁し、又帰て牛馬豚等の事を処分し、六月二十三日谷地頭に到り牧場の経営を任ず。英人は八戸に留て耕具牛車等の製造を掌(つかさど)る……

とあり、安任は青森へ行き県に対し牧場経営の開始を伝えた後、谷地頭に帰り家畜についての庶務を行い、英人(ルセー、マキノン)は八戸に留まり、農耕具や牛馬に引かせる荷車などを作っていた事がわかる。この時に作成した農耕具として先人記念館にプラウが収蔵されているが、これはマキノンの設計で、当時八戸にいた刀匠・柏木宗重の手により製作されたものである。
安任は道中七戸にも立ち寄っており、宗村光徳と相談して洋種馬を七戸産の馬と交配させることを約束したが

英人と共に八戸に仮寓し、余は青森に出張して企業着手の事を弁し、又帰て牛馬豚等の事を処分し、六月二十三日谷地頭に到り牧場の経営を任ず。英人は八戸に留て耕具牛車等の製造を掌(つかさど)る……

とあるように、七戸の人々は七戸産の馬が洋種のものよりも優れているとして交配に難色を示したという。

【開牧と視察】

現在から約150年前の明治5年(1872)5月27日、廣澤安任はこの日を開牧記念日として牧場経営をスタートさせた。安任は東京でルセー、マキノンを牧場に雇い入れた後、5月27日に、ルセー、マキノンらも6月3日までに八戸の鮫港に降り立った。その後、牧場の場所を視察する様子が『開牧五年紀事 上』に記されている。

(前略)時に我らを直轄するは青森県の支庁七戸にて、其長官は宗村光徳氏なり。因って請うて共に出て荒野を験視し牧場をとせんとす。(中略)浜三沢岡三沢七百村等より三本木駅に出て、また小河原村より根井山中谷地頭村等指目(しもく)する所の各処を巡り・・・(後略)

とあり、七戸支庁長官宗村光徳とともに谷地頭に至るまでの各地を視察したことがわかる。 しかし、本文の掲載は省略するが八戸や三本木駅から離れていることや、視察中に村人に牧場経営をこの周辺で行いたいという考えを拒む意見もあったようで土地の選定は思うように進まなかったが、安任は視察を行った結果から、南部藩の藩牧木崎野があったこと、沼があり水を確保できること、高い丘と林が豊富なことから谷地頭に牧場を開くことを決めたのである。

【堆肥(たいひ)作り】

安任が畑の耕耘(こううん)をしている間、マキノンは堆肥の作成に取り掛かっていた。安任はその製法を次のように紹介している。

この間マキノンは堆糞を作れり。その法牛馬に基き草根の土を帯びて腐敗せしものその他廃棄物と同じく焼きたる灰又人糞或いは糞汁に染たる土などを取り交ぜ層々混和しその上に土を覆う。
(開牧五年紀事 文中より引用)

安任は堆肥の重要性を認識しており、この時マキノンから教わっただけではなく、のちにその堆肥の製法について記された『耕作必要』を手に入れており、より良い堆肥の製法を模索していたのではないだろうか。

高さ四尺許(ばかり)、幅五、六間以て明年の用とす。
(開牧五年紀事 文中より引用)

積み重ねた堆肥の素は次の年に用いるために置かれたようである。 しかし、安任はこの堆肥を作る費用も懸念していた。堆肥を作ってもそれを用いた畑で良い収穫ができなければ実入りがないためである。この時点では安任たちは畑の実入りを想像することはできなかっただろう。