三沢市先人記念館
特別企画展
斗南藩北上期
会津藩は会津戦争ののち、わずか3万石の北の地でお家再興を許されました。斗南藩としての生活に希望を抱いた人たちの旅路、生活は想像を絶するほど過酷なものとなりました。日々の生活すらままならない中で多くの人が、厳しい冬を乗り越え暮らしていました。 本展では、会津藩に起こった悲劇と陸奥の地への過酷な旅路、斗南藩の生活を順を追って解説します。藩士たちの生活や心情、移封された地での足掻きを感じていただければ幸いです。
開催概要
■展示内容
●会津藩に起こった悲劇
会津戦争の詳細とお家再興が許されるまでを解説します。
●陸奥への旅路
藩士とその家族たちの移動ルートの詳細や、その旅路の過酷さを解説します。
●斗南藩士の暮らし
陸奥の地で生活を始めてからの暮らしぶりや、廃藩置県のあと藩士たちがどのように暮らし、活躍をしたのか解説します。
【期間】令和6年7月10日(水)~ 11月10日(日)
※ただし毎週月曜日は休館(月曜祝日の場合はその翌日)
※7月22日、29日、8月5日、13日、19日は夏休み期間のため臨時開館
【開館時間】 4月~10月まで9:00~17:00(入場は30分前まで)
11月~3月まで9:00~16:00(入場は30分前まで)
【休館日】 毎週月曜日(月曜祝日の場合はその翌日)
【料金】 高校生以上/110円、小・中学生/60円、幼児以下/無料 ※毎週土曜日は小・中学生無料
【場所】 先人記念館 企画展示室
【主催】 一般社団法人三沢市観光協会
【お問合せ】 三沢市先人記念館
TEL:0176-59-3009 / FAX:0176-59-3045
Eメール:senjin@misawasi.com
先人記念館とは
先人記念館について
三沢市先人記念館は古くから南部藩最大の馬の放牧場「木崎の牧」としてしられた地であり、1872年(明治5年)に日本初民間洋式牧場を開設した元会津藩士・旧斗南藩少参事であった廣澤安任をはじめ、地域の発展に尽くした人々を顕彰することを目的として建設された館です。
廣澤安任とはこんな人物
幕末から明治にかけて、時代の波を駆け抜けた一人の武士がいました。その名は「廣澤安任」。当館は幕末の会津・斗南藩士である「廣澤安任」にスポットを当てています。廣澤安任とはどのような人物だったのでしょう。
廣澤安任は会津藩の藩校、日新館の出身であり、さらに江戸の昌平黌に学ぶなど優秀な人材であったと言われています。
尊皇攘夷に揺れる幕末の時代、安任は藩主・松平容保が京都守護職に任命されると上京し公用人として他藩の藩士や朝廷の公家と交流しました。
明治維新後、安任は三沢市谷地頭の地に、英国人ルセーとマキノン、八戸藩大参事太田広城と共に『開牧社』を立ち上げます。それは広大な日本初の民間洋式牧場でした。
野にあって国家に尽くす
安任は信頼もあり、時の人物、大久保利通や松方正義といった著名人から国の役人に就くことを勧められたもありました。
しかし、あくまでも安任は「野にあって国家に尽くす」と在野の身を貫き、牧畜に生涯を捧げたのです。
それは、廃藩置県で失業に陥った武士の雇用救済のためでもあったとも言われています。
そして牧畜業に留まらず、安任は数々の画期的な試みを行います。
・洋種の馬との掛け合わせにより優秀な馬を生産
・野草を牧草に品種改良
・下北半島運河開発(計画のみ)
・東京での乳製品の製造・販売 など……
常設展示室では、その様子をいつでも感じ取ることができます。 時は流れ、私たちの生活もいつか、伝えられるときがくるでしょう。時代を駆け抜けた「廣澤安任」の生き様を是非ご覧下さい。
ご利用案内
ご利用案内
三沢市先人記念館
【開館時間】
4月~10月まで
11月~3月まで9:00~17:00
(入場は30分前まで)
9:00~16:00
(入場は30分前まで)
【入場料】 一般/110円
小・中学生/60円
※毎週土曜日は小・中学生無料
【休館日】
毎週月曜日(月曜日が祝日の際は祝日明けの日)
年末年始(12月29日~1月3日まで)
※企画展示替えのため臨時休館あり(2024年は4/16、7/9、11/12の3日間)
【住所】
〒033-0164 青森県三沢市谷地頭4丁目298-652
【TEL】
0176-59-3009
【FAX】
0176-59-3045
資料室
廣澤安任は明治5年(1872)に開牧社を開設してから5年間の牧場運営の記録を『開牧五年記事』としてまとめ、明治12年(1879)に出版しました。
「開牧五年紀事より」は普段『広報みさわ』に連載していますが1年間分をこの資料室ページに掲載し、安任がどのような形で牧場経営を行っていったのか、その一端をご紹介します。
「開牧五年紀事」より
■目次
- 【ルセーとマキノンのこと(3)】
- 【ルセーとマキノンのこと(2)】
- 【ルセーとマキノンのこと(1)】
- 【冬の間】
- 【牛への烙印と左耳切り牛】
- 【ルセー、マキノン谷地頭に移り住む】
- 【経営の着手】
- 【開牧と視察】
- 【堆肥(たいひ)作り】
【ルセーとマキノンのこと(3)】
前項までルセーとマキノンの関係性について述べてきたが、それに対し安任はどう考えていたのだろうか。『開牧五年紀事』には以下のようにある。
意訳すると「ルセーは度々自らの主導権を主張していたが、私はそれを敢えて判断しなかった。しかし、マキノンとは通訳であるルセーを通して会話していたため、考えが行き届かなかっことはあっただろう」となるであろうか。その理由として安任は以下のように続けている。
「初めからルセーとマキノンと共に開牧し、二人の牧場での働きを頼りにしたい。それなのにこれを束縛してその技量を出し切れないのは意に反することだ。それ故に暫くの間は我々の古い習慣が優れているものも彼らの技量の底を見ないうちは任せることにした。」 長い引用となったが、牧畜業のノウハウもない安任がルセーとマキノン両人の助けをいかに重要視していたことがわかる内容である。それだけに二人の不仲は安任を悩ませたことだろう。
【ルセーとマキノンのこと(2)】
ルセーとマキノン、それぞれの経歴を見てみよう。
ルセーは元々越前藩(現在の福井県嶺北中心部)で英語を教えていた。越前藩時代はウィリアム・E・グリフィスとともに教鞭を執っていたようである。
マキノンは長らく農夫の経験を積み、日本に来る前はオーストラリアで農夫をしていたとある。「言語ともに鄙なり」とあるがこれについてルセーは「マキノンの語は倒置して余も解し得ぬ事ありと語りし故を聞けり」と言っていたようで、同じ英語でも齟齬が生じていたようである。さらに
とあり、ルセーはマキノンとの立場の違いがあるにも関わらず上辺に出ることが出来ない点を不満に感じていたようである。その後、ルセーとマキノンの仲が修復されること無く開牧3年目にしてルセーは自ら牧場を去ってしまうのである。
【ルセーとマキノンのこと(1)】
ルセーとマキノンは共に安任らと「條約」を交わし牧場に雇われた身であったが、お互いの仲は良くなかったようである。
このように記されており、両者の確執は安任から見ても目に余るものであった。ルセーとマキノンの溝は埋まること無く、当初五カ年の契約であったところをルセーは3年目の明治八年(1875)に解約し牧場を去っている。
なぜこれほどまでの確執があったのか、ルセーとマキノンの経歴や立場を含めて『開牧五年紀事』にその理由が記されている。
……(2)へ続く
【冬の間】
開牧社がスタートして初めての冬、マキノンは牧場で飼育している牛を次のように処置したという。
冬の間は牛舎の牛それぞれの区画で牛の首を柱で挟み、動かないようにしていたという。
マキノンの処置に対して安任らはこれを良しとしなかったようであるが、マキノンは多数飼う場合の方法として断じて譲らなかったようである。しかし、マキノンもこれが間違いであったとして、この方法をとったのはこの冬のみであった。
このほか、牧場では次の農耕に備えて農機具を増産していた。
この頃にはすでに、谷地頭に作り手となる鍛冶職人がいたと思われる。残念ながら一番初めに八戸で作られたプラウを除いて、牧場で作られた農機具は現存していないが、恐らく同様の形であったと思われる。
【牛への烙印と左耳切り牛】
牧場で飼育していた牛は去勢され、4歳になる以前に烙印が施されていた。烙印についてマキノンは以下のように述べている。
烙印は家畜の個体識別などに用いられるが、このほか廣澤牧場では左耳の一片を切り落とすことも目印として施されていた。廣澤安任の孫に当たる廣澤春彦が著した『廣澤牧場要覧』には
と「左耳切り牛」と呼ばれた廣澤牧場産の牛についての評判が記されている。現在残る廣澤牧場の家畜の写真を見ると、体に白黒の斑模様のついた所謂ホルスタインではなく、黒い体の短角牛が多く写っている。一時期ホルスタインなどの他種も導入したようではある。
【ルセー、マキノン谷地頭に移り住む】
明治5年(1872)8月11日、アルフレッド・ルセーとアンドリュー・マキノンは谷地頭に移り山中の民家に間借りした(安任は先んじて谷地頭の民家に間借りしている)。その際、八戸で作成した「牛車一両、鉄製プラオ(プラウ)一具、木製ハロオ(ハロー)一具、附属の細具数種」を持ち込んだ。以後、牧場内の整備や牛馬などの世話に携わることになる。まもなく、2人も谷地頭に移り住んだが、10月20日に安任の住居が完成したことを記した箇所に以下のようにある。
ルセー、マキノンの住居はすでに建てられていたが、注文が多く11月になってやっと入居したという。しかし、安任の注によると彼らは間借りしていた間は住居に不満を言うことはなかったという。現在、彼らの住居の跡は何も残っていないが斗南藩記念観光村内にある開墾村に、イメージ再現された彼らの住居を見ることができる。
【経営の着手】
明治5年(1872)5月27日を開牧記念日として牧場経営を始めた安任だが、その初めから谷地頭の開拓や牛馬の世話をしていたわけではなかった。 『開牧五年紀事 上』の中には
とあり、安任は青森へ行き県に対し牧場経営の開始を伝えた後、谷地頭に帰り家畜についての庶務を行い、英人(ルセー、マキノン)は八戸に留まり、農耕具や牛馬に引かせる荷車などを作っていた事がわかる。この時に作成した農耕具として先人記念館にプラウが収蔵されているが、これはマキノンの設計で、当時八戸にいた刀匠・柏木宗重の手により製作されたものである。安任は道中七戸にも立ち寄っており、宗村光徳と相談して洋種馬を七戸産の馬と交配させることを約束したが
とあるように、七戸の人々は七戸産の馬が洋種のものよりも優れているとして交配に難色を示したという。
【開牧と視察】
現在から約150年前の明治5年(1872)5月27日、廣澤安任はこの日を開牧記念日として牧場経営をスタートさせた。安任は東京でルセー、マキノンを牧場に雇い入れた後、5月27日に、ルセー、マキノンらも6月3日までに八戸の鮫港に降り立った。その後、牧場の場所を視察する様子が『開牧五年紀事 上』に記されている。
とあり、七戸支庁長官宗村光徳とともに谷地頭に至るまでの各地を視察したことがわかる。 しかし、本文の掲載は省略するが八戸や三本木駅から離れていることや、視察中に村人に牧場経営をこの周辺で行いたいという考えを拒む意見もあったようで土地の選定は思うように進まなかったが、安任は視察を行った結果から、南部藩の藩牧木崎野があったこと、沼があり水を確保できること、高い丘と林が豊富なことから谷地頭に牧場を開くことを決めたのである。
【堆肥(たいひ)作り】
安任が畑の耕耘(こううん)をしている間、マキノンは堆肥の作成に取り掛かっていた。安任はその製法を次のように紹介している。
(開牧五年紀事 文中より引用)
安任は堆肥の重要性を認識しており、この時マキノンから教わっただけではなく、のちにその堆肥の製法について記された『耕作必要』を手に入れており、より良い堆肥の製法を模索していたのではないだろうか。
(開牧五年紀事 文中より引用)
積み重ねた堆肥の素は次の年に用いるために置かれたようである。 しかし、安任はこの堆肥を作る費用も懸念していた。堆肥を作ってもそれを用いた畑で良い収穫ができなければ実入りがないためである。この時点では安任たちは畑の実入りを想像することはできなかっただろう。
会津藩は会津戦争ののち、わずか3万石の北の地でお家再興を許されました。斗南藩としての生活に希望を抱いた人たちの旅路、生活は想像を絶するほど過酷なものとなりました。日々の生活すらままならない中で多くの人が、厳しい冬を乗り越え暮らしていました。
本展では、会津藩に起こった悲劇と陸奥の地への過酷な旅路、斗南藩の生活を順を追って解説します。藩士たちの生活や心情、移封された地での足掻きを感じていただければ幸いです。
■展示内容
●会津藩に起こった悲劇
会津戦争の詳細とお家再興が許されるまでを解説します。
●陸奥への旅路
藩士とその家族たちの移動ルートの詳細や、その旅路の過酷さを解説します。
●斗南藩士の暮らし
陸奥の地で生活を始めてからの暮らしぶりや、廃藩置県のあと藩士たちがどのように暮らし、活躍をしたのか解説します。
【期間】 | 令和6年7月10日(水)~ 11月10日(日) ※ただし毎週月曜日は休館(月曜祝日の場合はその翌日) ※7月22日、29日、8月5日、13日、19日は夏休み期間のため臨時開館 |
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【開館時間】 | 4月~10月まで9:00~17:00(入場は30分前まで) 11月~3月まで9:00~16:00(入場は30分前まで) |
【休館日】 | 毎週月曜日(月曜祝日の場合はその翌日) |
【料金】 | 高校生以上/110円、小・中学生/60円、幼児以下/無料 ※毎週土曜日は小・中学生無料 |
【場所】 | 先人記念館 企画展示室 |
【主催】 | 一般社団法人三沢市観光協会 |
【お問合せ】 | 三沢市先人記念館 TEL:0176-59-3009 / FAX:0176-59-3045 Eメール senjin@misawasi.com |
三沢市先人記念館は古くから南部藩最大の馬の放牧場「木崎の牧」としてしられた地であり、1872年(明治5年)に日本初民間洋式牧場を開設した元会津藩士・旧斗南藩少参事であった廣澤安任をはじめ、地域の発展に尽くした人々を顕彰することを目的として建設された館です。
幕末から明治にかけて、時代の波を駆け抜けた一人の武士がいました。その名は「廣澤安任」。当館は幕末の会津・斗南藩士である「廣澤安任」にスポットを当てています。廣澤安任とはどのような人物だったのでしょう。
廣澤安任は会津藩の藩校、日新館の出身であり、さらに江戸の昌平黌に学ぶなど優秀な人材であったと言われています。
尊皇攘夷に揺れる幕末の時代、安任は藩主・松平容保が京都守護職に任命されると上京し公用人として他藩の藩士や朝廷の公家と交流しました。
明治維新後、安任は三沢市谷地頭の地に、英国人ルセーとマキノン、八戸藩大参事太田広城と共に『開牧社』を立ち上げます。それは広大な日本初の民間洋式牧場でした。
野にあって国家に尽くす
安任は信頼もあり、時の人物、大久保利通や松方正義といった著名人から国の役人に就くことを勧められたもありました。
しかし、あくまでも安任は「野にあって国家に尽くす」と在野の身を貫き、牧畜に生涯を捧げたのです。
それは、廃藩置県で失業に陥った武士の雇用救済のためでもあったとも言われています。
そして牧畜業に留まらず、安任は数々の画期的な試みを行います。
・洋種の馬との掛け合わせにより優秀な馬を生産
・野草を牧草に品種改良
・下北半島運河開発(計画のみ)
・東京での乳製品の製造・販売 など……
常設展示室では、その様子をいつでも感じ取ることができます。 時は流れ、私たちの生活もいつか、伝えられるときがくるでしょう。時代を駆け抜けた「廣澤安任」の生き様を是非ご覧下さい。
三沢市先人記念館
【開館時間】 | 4月~10月まで 11月~3月まで |
9:00~17:00(入場は30分前まで) 9:00~16:00(入場は30分前まで) |
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【入場料】 | 一般/110円 小・中学生/60円 ※毎週土曜日は小・中学生無料 |
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【休館日】 | 毎週月曜日(月曜日が祝日の際は祝日明けの日) 年末年始(12月29日~1月3日まで) ※企画展示替えのため臨時休館あり (2024年は4/16、7/9、11/12の3日間) |
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【住所】 | 〒033-0164 青森県三沢市谷地頭4丁目298-652 | ||
【TEL】 | 0176-59-3009 | ||
【FAX】 | 0176-59-3045 |
廣澤安任は明治5年(1872)に開牧社を開設してから5年間の牧場運営の記録を『開牧五年記事』としてまとめ、明治12年(1879)に出版しました。
「開牧五年紀事より」は普段『広報みさわ』に連載していますが1年間分をこの資料室ページに掲載し、安任がどのような形で牧場経営を行っていったのか、その一端をご紹介します。
■目次
- 【ルセーとマキノンのこと(3)】
- 【ルセーとマキノンのこと(2)】
- 【ルセーとマキノンのこと(1)】
- 【冬の間】
- 【牛への烙印と左耳切り牛】
- 【ルセー、マキノン谷地頭に移り住む】
- 【経営の着手】
- 【開牧と視察】
- 【堆肥(たいひ)作り】
【ルセーとマキノンのこと(3)】
前項までルセーとマキノンの関係性について述べてきたが、それに対し安任はどう考えていたのだろうか。『開牧五年紀事』には以下のようにある。
意訳すると「ルセーは度々自らの主導権を主張していたが、私はそれを敢えて判断しなかった。しかし、マキノンとは通訳であるルセーを通して会話していたため、考えが行き届かなかっことはあっただろう」となるであろうか。その理由として安任は以下のように続けている。
「初めからルセーとマキノンと共に開牧し、二人の牧場での働きを頼りにしたい。それなのにこれを束縛してその技量を出し切れないのは意に反することだ。それ故に暫くの間は我々の古い習慣が優れているものも彼らの技量の底を見ないうちは任せることにした。」 長い引用となったが、牧畜業のノウハウもない安任がルセーとマキノン両人の助けをいかに重要視していたことがわかる内容である。それだけに二人の不仲は安任を悩ませたことだろう。
【ルセーとマキノンのこと(2)】
ルセーとマキノン、それぞれの経歴を見てみよう。
ルセーは元々越前藩(現在の福井県嶺北中心部)で英語を教えていた。越前藩時代はウィリアム・E・グリフィスとともに教鞭を執っていたようである。
マキノンは長らく農夫の経験を積み、日本に来る前はオーストラリアで農夫をしていたとある。「言語ともに鄙なり」とあるがこれについてルセーは「マキノンの語は倒置して余も解し得ぬ事ありと語りし故を聞けり」と言っていたようで、同じ英語でも齟齬が生じていたようである。さらに
とあり、ルセーはマキノンとの立場の違いがあるにも関わらず上辺に出ることが出来ない点を不満に感じていたようである。その後、ルセーとマキノンの仲が修復されること無く開牧3年目にしてルセーは自ら牧場を去ってしまうのである。
【ルセーとマキノンのこと(1)】
ルセーとマキノンは共に安任らと「條約」を交わし牧場に雇われた身であったが、お互いの仲は良くなかったようである。
このように記されており、両者の確執は安任から見ても目に余るものであった。ルセーとマキノンの溝は埋まること無く、当初五カ年の契約であったところをルセーは3年目の明治八年(1875)に解約し牧場を去っている。
なぜこれほどまでの確執があったのか、ルセーとマキノンの経歴や立場を含めて『開牧五年紀事』にその理由が記されている。
……(2)へ続く
【冬の間】
開牧社がスタートして初めての冬、マキノンは牧場で飼育している牛を次のように処置したという。
冬の間は牛舎の牛それぞれの区画で牛の首を柱で挟み、動かないようにしていたという。
マキノンの処置に対して安任らはこれを良しとしなかったようであるが、マキノンは多数飼う場合の方法として断じて譲らなかったようである。しかし、マキノンもこれが間違いであったとして、この方法をとったのはこの冬のみであった。
このほか、牧場では次の農耕に備えて農機具を増産していた。
この頃にはすでに、谷地頭に作り手となる鍛冶職人がいたと思われる。残念ながら一番初めに八戸で作られたプラウを除いて、牧場で作られた農機具は現存していないが、恐らく同様の形であったと思われる。
【牛への烙印と左耳切り牛】
牧場で飼育していた牛は去勢され、4歳になる以前に烙印が施されていた。烙印についてマキノンは以下のように述べている。
烙印は家畜の個体識別などに用いられるが、このほか廣澤牧場では左耳の一片を切り落とすことも目印として施されていた。廣澤安任の孫に当たる廣澤春彦が著した『廣澤牧場要覧』には
と「左耳切り牛」と呼ばれた廣澤牧場産の牛についての評判が記されている。現在残る廣澤牧場の家畜の写真を見ると、体に白黒の斑模様のついた所謂ホルスタインではなく、黒い体の短角牛が多く写っている。一時期ホルスタインなどの他種も導入したようではある。
【ルセー、マキノン谷地頭に移り住む】
明治5年(1872)8月11日、アルフレッド・ルセーとアンドリュー・マキノンは谷地頭に移り山中の民家に間借りした(安任は先んじて谷地頭の民家に間借りしている)。その際、八戸で作成した「牛車一両、鉄製プラオ(プラウ)一具、木製ハロオ(ハロー)一具、附属の細具数種」を持ち込んだ。以後、牧場内の整備や牛馬などの世話に携わることになる。まもなく、2人も谷地頭に移り住んだが、10月20日に安任の住居が完成したことを記した箇所に以下のようにある。
ルセー、マキノンの住居はすでに建てられていたが、注文が多く11月になってやっと入居したという。しかし、安任の注によると彼らは間借りしていた間は住居に不満を言うことはなかったという。現在、彼らの住居の跡は何も残っていないが斗南藩記念観光村内にある開墾村に、イメージ再現された彼らの住居を見ることができる。
【経営の着手】
明治5年(1872)5月27日を開牧記念日として牧場経営を始めた安任だが、その初めから谷地頭の開拓や牛馬の世話をしていたわけではなかった。 『開牧五年紀事 上』の中には
とあり、安任は青森へ行き県に対し牧場経営の開始を伝えた後、谷地頭に帰り家畜についての庶務を行い、英人(ルセー、マキノン)は八戸に留まり、農耕具や牛馬に引かせる荷車などを作っていた事がわかる。この時に作成した農耕具として先人記念館にプラウが収蔵されているが、これはマキノンの設計で、当時八戸にいた刀匠・柏木宗重の手により製作されたものである。安任は道中七戸にも立ち寄っており、宗村光徳と相談して洋種馬を七戸産の馬と交配させることを約束したが
とあるように、七戸の人々は七戸産の馬が洋種のものよりも優れているとして交配に難色を示したという。
【開牧と視察】
現在から約150年前の明治5年(1872)5月27日、廣澤安任はこの日を開牧記念日として牧場経営をスタートさせた。安任は東京でルセー、マキノンを牧場に雇い入れた後、5月27日に、ルセー、マキノンらも6月3日までに八戸の鮫港に降り立った。その後、牧場の場所を視察する様子が『開牧五年紀事 上』に記されている。
とあり、七戸支庁長官宗村光徳とともに谷地頭に至るまでの各地を視察したことがわかる。 しかし、本文の掲載は省略するが八戸や三本木駅から離れていることや、視察中に村人に牧場経営をこの周辺で行いたいという考えを拒む意見もあったようで土地の選定は思うように進まなかったが、安任は視察を行った結果から、南部藩の藩牧木崎野があったこと、沼があり水を確保できること、高い丘と林が豊富なことから谷地頭に牧場を開くことを決めたのである。
【堆肥(たいひ)作り】
安任が畑の耕耘(こううん)をしている間、マキノンは堆肥の作成に取り掛かっていた。安任はその製法を次のように紹介している。
(開牧五年紀事 文中より引用)
安任は堆肥の重要性を認識しており、この時マキノンから教わっただけではなく、のちにその堆肥の製法について記された『耕作必要』を手に入れており、より良い堆肥の製法を模索していたのではないだろうか。
(開牧五年紀事 文中より引用)
積み重ねた堆肥の素は次の年に用いるために置かれたようである。 しかし、安任はこの堆肥を作る費用も懸念していた。堆肥を作ってもそれを用いた畑で良い収穫ができなければ実入りがないためである。この時点では安任たちは畑の実入りを想像することはできなかっただろう。