先日、お客様からバスについてのお問い合わせがあり「ところでビードルってなに?」とのご質問をいただきました。
お客様の仰る通り、バスの路線名には「ビードル東線」や「ビードル西線」があり、ビードルドーム、ビードルプラザ、ビードルビーチなど三沢の各所に「ビードル」という言葉が使われており、赤い飛行機のイラストが描かれています。
そこで、今回は三沢市とビードルとの由縁についてご説明をしたいと思います。
ビードルとは、世界初太平洋無着陸横断飛行に成功した飛行機の名前「ミス・ビードル号」に由来します。
大正から昭和の初め、世界は冒険飛行の全盛期でした。
リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したことを機に、長距離飛行に賞金が懸けられるようになり、世界中の飛行士にとって「世界一周早周り飛行」と「太平洋無着陸横断飛行」が挑戦目標になりました。
当時の飛行機では長距離を飛ぶことが困難な上、濃霧や厳しい寒さに耐える技術もなく、北太平洋を飛ぶことはまさに命がけでした。
アメリカのタコマ市やシアトル市から東京を目指した挑戦はすべて失敗し、三沢市淋代からの挑戦も4度失敗が続いたそうです。
「ミス・ビードル号」の本来の目的は世界一周でした。しかし、ロシアでトラブルが相次ぎ記録更新を断念。
そんな失意の中で飛行士「パングボーン」と「ハーンドン」に幸運をもたらしたのが朝日新聞社の懸賞金の発表でした。
そして二人は 赤い機体の「ミス・ビードル号」で三沢の淋代海岸にやってきたのです。
なぜ三沢市から飛んだのでしょうか?
1.偏西風の影響で日本から東へ飛ぶルートが最適。
2.最短の飛行ルートとなる。
3.淋代海岸は粘土と砂鉄が混じった砂浜で、固い地盤が重い長距離飛行機の滑走路に最適。
との理由から、挑戦への滑走路となったのです。
当時、三沢の村人は淋代からの5回におよぶ挑戦全てに滑走路の整備や宿舎の提供を無償で援助しました。
凶作飢饉や昭和恐慌など、生活が困窮する中でのこと、東北とりわけ三沢の人々の優しさと絆が人類初の快挙を生んだといえます。
三沢市淋代から挑戦した各飛行士たちは小比類巻村長宅の襖(ふすま)に寄せ書きをし、感謝の気持を伝え残しました。
各飛行士たちは村人に敬意を込めて「フレンドシップビーチ」「インターナショナルエアポート」と直筆を残しています。
昭和6年10月5日「ミス・ビードル号」は太平洋を無事渡り、アメリカのワシントン州ウエナッチに胴体着陸しました。
機体を軽くするため離陸直後に車輪まで外し、決死の覚悟で41時間10分をかけ到着した瞬間でした。
機内には5つのりんごが残されていました。
りんごの生産が有名だったウエナッチでは、これをアルコール漬けにして大切に保存したそうです。
更に翌年には、ウエナッチからリチャードデリシャスという新品種の苗木が贈られ、三沢空港でもその子孫を見ることができます。
1981年(昭和56年)には三沢市とウェナッチ市は姉妹都市となりました。
太平洋無着陸横断飛行への挑戦がつないだ三沢市とウェナッチ州は、イベントやホームステイなど現在も交流が続いています。
市内には、「ミス・ビードル号」の偉業、「挑戦する勇気、夢支える雄志」をたたえる、太平洋無着陸横断飛行記念碑や、ミス・ビードル号の実物大模型がある太平洋展望台があります。
また、青森県立三沢航空科学館では「ミス・ビードル号」の実物大復元機を当時の写真や新聞記事などと合わせて展示をしています。
詳しくは、夢とロマンにあふれるミス・ビードル号公式ウェブサイトをご覧ください。
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